私は幼少の頃から、両親との確執があり、そのことで長い間苦しんでいました。
私は3人兄弟の真ん中で、姉と弟がいるのですが、時代的にも田舎の保守的な地域で育ったということもあり、私の両親(家庭)は家父長制度の価値観を持っていて、その中で私は育てられました。
弟はしていいことが、私(と姉)はできないと感じることが多く、むしろ女だからということでしなくてはいけないことがありました。
「弟はいつも甘やかされていて、私達姉妹はいつも2番目にされる」という思いが私の人格やキャリアを作って来ました。私は、いつも自分を2番目にする両親を見返したくて、いつも頑張っていました。
私はもともと反抗的な性格ということもあり、いつもそのことにとても反発していて、それと同時に傷ついてきました。今でもそのことに関するできごとに出くわすと両親との間で喧嘩が起こります。
そのときに、いつも両親が言うことは、「3人を平等に育ててきたつもりだった」ということです。でもそれに私が返す言葉は、「そう思いたかっただけでしょ。昔のことで忘れてしまっただけだよ。責任逃れは罪だよ」でした。
私はずっと両親を恨んでいたいわけではないですし、普段は仲の良い家族なのです。両親がいつまでも生きているとも思っていません。生きているうちに親孝行もしたいと思っています。でも、この葛藤が邪魔して、優しくしたいのにできなかったのです。
そして、先週もまた、喧嘩が勃発しました。
そのとき、母親と話している一方で、別の客観的な私は、「このままずっとこうしていては(両親:3人平等に育てた、私:それはそう思いたいだけだよ)、ずっと永遠に平行線のままなんだろうな」と感じていました。
そして、、突然マザーテレサの言葉がふっと頭をよぎりました。「大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ愛を込めたかです」でした。
私は今まで両親に対し、「あのときこうしてくれなかった、あのとき、こう言われた」と、両親を非難ばかりしていました。でも、大切なことは「何をしてくれて何をしてくれなかったか」ではなく、「してくれたことに対してどれだけ愛を込めてくれたかと見ようとすること」だったんだなと。
”急に”、”突然に”気付いたのです。まるで、これまでの私と異なる私でした。急に視点が変わったのでした。
私のしてほしいことを相手が100%してくれるわけではない、そして私も相手がしてほしいことを100%できない。だって別々の人間だから。だったら、行動そのものでなく、その先にある”愛”を見ようとすることが大切なのだな、と。
本当に不思議な出来事ですが、理屈ではないんですね。頭で理解することと、腑に落ちることは全く違うんだと知りました。
フェーズ2を受けてわずか2~3日の間の出来事だったと思います。
まりさん、本当にありがとうございました。
「ハートを開く」ってこういうことだったんだ!と、体験をもって腑に落ちたことで、大きな癒しと喜びと自分で在ることの素晴らしさをKさまはご自分のすべてで受け取られたのですね。
Kさま、素敵なご感想とブログ掲載のご協力をありがとうございました。